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2015-08-02

伊東豊雄インタビュー-3

2つの抽象
――最近の建築のお仕事全般について、うかがいたいと思います。

以前にインタビューをさせていただいたときもそうでしたし、また最近のインタビューを拝見しても、抽象という言葉をよく使われています。抽象というのはモダニズムを牽引した考え方、キーワードのひとつであったわけですが、伊東さんはこれをいまいちど捉え直すことによって、モダニズムを超える、というかその先へ向かうというようなことをされているというように理解しているのですが。

伊東 そうですね、建築は自然の中に人間が知性の証としてつくるわけですから、必ずそこで自然と一回切れるわけですね。動物の巣のようなものとはどこかで違う、幾何学が入っているとか、形式が入っているとか、そういうことがあって初めて建築と呼ばれる。20世紀の建築は、グリッドの幾何学というか、いろんな要素を切り捨てて、「Less is more」の美学でつくられてきたわけですが、それがかなり限界にきているので、もう少し自然と隣接する関係をつくりだす、断ち切るのではなくてむしろ結んでいくような幾何学が必要ではないかと思っています。それを「新しい抽象」と呼びたいと思っているのです。

――その場合は抽象という言葉はポジティヴな意味で使われていますが、モダニズムにおける機能ということを考えたときにはそこでも抽象というものが行われていて、こちらの抽象については否定的に語られていますね。

伊東 ええ、人間の行為は切れ目もなくつながっていて複合的なものなのに、それを機能という言葉で呼ぶことによって、いろいろな取捨選択をして単純化している。その切り分けが、空間の切り分けにもつながっていて、プログラムを明快に分けて、そのプログラムに従った空間の関係をつくりだす。そこがとても問題だと思っています。

というのは、今回の震災で、防潮堤一発で人間の住んでいるところと大自然=海を切り分けようという思想も破たんしたし、原発もブラックボックスをつくってここはぜったい安全だという神話をつくっていたのがいとも簡単にやられてしまった。そういう切り分ける思想ではなくて、むしろ関係をつくっていく思想が必要なのではないか。自然と人間との関係もそうだし、人間と人間のいるスペースに関してもそうだし、そこにどういう関係の構造や形式をつくっていけるかが問われるように思うのです。そうでないと、20世紀のエコロジーとかサステナビリティとか、エネルギーの問題なども解決できないんじゃないか。

今よく言われているエコロジーとか省エネとかは、内/外の境界をはっきりして内部の性能を上げて、太陽熱を使ったとしても内部のエネルギーをできるだけセーブしていこうという考え方ですが、これはどうも逆方向のような気がしています。むしろ近代以前の日本の住居のような緩やかな境界をつくりソフトなテクノロジーを駆使しながらもっと柔軟に解決できるような気がするのです。

具体的には、ちょうど震災の直前にコンペのあった岐阜市のライブラリーのプロジェクトがあるのですが、これはできるだけ自然のエネルギー、風や水や太陽熱などを利用しながら、ヴォリューム全体に空気をうまく循環させることによって、消費エネルギーを従来の2分の1にするという計画です。アラップ・ジャパンと今いっしょにスタディしていますが、シミュレーションによってこれは実現できるという確信を持っています。実施設計に入ったところで、来年の夏に着工して、竣工は2014年度の終わりころの予定です。

場所の感覚、場所への欲望
――たとえば機能という観点から食べるための空間というものを考えたときに、人間がそこで行うとても多様なアクティヴィティが、食べるという機能をいかに充足させるか、あるいはそれにどう対応するかということに単純に置き換えられて捨象されてしまうわけですが、そこでは同時にまた、人間の身体とか、知覚、感覚といったものも捨象されてしまうわけですね。これはさきほどの、自然と隣接する関係をつくるというお話とリンクしますか。

伊東 しますね。いまはグリッドでつくられた均質な空間が東京をはじめとする都市を覆ってしまって、オリエンテーションが南でも北でも関係がなかったり、夏も冬も、晴れの日でも雨の日でもほとんど関係のない生活を送るようになって、人間の動物的な身体性が非常に衰退してしまっていると思うのですね。みな表情が無くなってきていますよね。うちのスタッフなんかみていてもそういう感じが(笑)すごくありますが、それはちょっとまずいなと思っていて、動物のように自然との関係に敏感になっていかないとまずいのではないか。屋外にいたら場所の違いを本能的に感じてさまざまな行動をしますが、そういった場所の違いを建築でもつくりだしたいと思うのです。南と北は違うし、人が集まって大騒ぎをするような場所と静かにしていたい場所は自ずから違ったものになるはずで、それをただ記号だけでここは集まる場所、ここは静かにする場所、みたいな建築のつくり方はたいへん退屈です。

――場所に対する人間的な欲望を触発したいと。

伊東 そうですね。かつての日本の木造の住居は自然にたいして開かれていたから、自ずから自然の場所の違いが住宅の中にも反映されていたわけですが、それがいま断ち切られてしまっているので、もう一度自然に開いていく。ただかつてのように戻せといっても、寒さ暑さに対して今の人は非常に鈍感になっていますから、微妙にやっていかないとまずいので、それをコントロールの技術によって補っていくような方法があり得るとは思っています。

――モダニズムの建築家でも、ル・コルビュジエとかアールトとか、そのあたりの人たちは、身体や知覚、あるいは今のお話に出てきたようなことを軽視することなく設計をしていたと思いますが、現在、伊東さんが設計をされているなかで、こういった人たちの試みを参考にされるとかシンパシーを感じられるようなことはありますか。

伊東 やっぱりコルビュジエはすごかったと思いますね。そういう問題を考えれば考えるほど、あれだけ近代主義を唱えて、幾何学は美しいなんて言っていた人なのに、いちばん、生命の喜びを表現できていた人だったなと思います。

特に僕は晩年の《ラ・トゥーレット修道院》や《ロンシャンの教会堂》が好きなんですが、ロンシャンは非常に表現的な建築であるにもかかわらず、光が美しく入ってくることが直観的にできてしまう。晩年になってからの人間としての豊さが、そのまま建築に出てきているのは本当に素晴らしいと思いますね。最近《カップマルタンの小屋》を見に行って、なんでもない、本当に材木を組み上げただけの小屋ですが、それがあれほど輝いて見えるのは、やはり、生活あるいは人間の活動と建築とがつねにひとつのものになっていたからだと思いましたね。

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