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2015-08-02

松浦寿輝『不可能』

ちょっと前に書いたものですが、取りあえずのコンテンツがないので、アップしておきます。

 

この小説の主人公の平岡老人が、実は1970年11月に自衛隊市ヶ谷駐屯地(当時)で起こした事件で命を落とすことなく生き延びた三島由紀夫その人であることは、平岡公威という三島の本名がわざわざ書き添えられたエピグラフからしてすでに明白と言えようか。作中で語られる平岡老人のいくつかのエピソードも三島のそれと符合するし、老人の首に残る二筋の瘢痕は、つまりは三島とともに自衛隊に乗り込んだ、盾の会の古賀による最後の一撃が振り落とされなかったことを物語っているのだろう。

だが、事件そのものには最後まで触れられることはなく、相当な深傷を負ったはずの腹に大きな瘢痕があるとの記述も見られない。重罪――内乱罪か?――により刑務所に27年収監されていたというのも計算が合わない(このあたりの記述は意識的に曖昧にされているようだ)。

三島の生涯と符合する点はあるにせよ、三島を召還した(ように見える)のは作者の「首」への執着のように思える。「首」をめぐるエピソードのために口実として拝借されてきた三島由紀夫=平岡公威のエピソード。実際、三島由紀夫という小説家とその作品についての知識などもたずとも、この小説の魅力が減じることはないのである。

松浦の小説の読者であれば、その魅力のひとつが触覚的とも言える身体への眼差しにあることはよく知るところだろう。2004年の長編『半島』では、主人公の男が怪しげな界隈でドブロクを飲むが、その時、その自家製の酒の匂いと味わいが自らの口腔を一瞬満たし主人公とともに酔いが進んでいくかのように感じた読者は少なくないはずだ。

この小説では、この身体性への松浦の執着がより明瞭に表れている。たとえば、サルトルの小説『嘔吐』で主人公のロカンタンに訪れるマロニエの樹のもとでの啓示のように、平岡老人のもとに(こちらは竹林で)静かな啓示が訪れる場面。「まず音が来た。世界は音に満ちていた。……そしてにおいが来た。においもまた無限だった。……最後に何とも言いようもない感覚が来た……彼自身が世界の一部として在るのだった。彼が世界なのだった」。もはや世界との距離は存在しない。平岡自身が世界そのものなのだから。この「何とも形容しがたい触覚的な啓示」を平岡は全身で受け止めるのである。

そうすると、首への執着はつまりはこの触覚への執着だと言えようか。すなわち、首に刃が喰い込むことにより、世界との距離は完全に消滅し、これはまた、「血まみれ」という、「至高の、初源の、究極の密着状態」を招来するのだから。

松浦は映画評論家としても知られるが、映画という視点からこの小説を語ることも可能だろう。すなわち、この触覚への嗜好=志向には、現代映画の視覚偏重への批判が、そして松浦小説お馴染みの幻想的なシーンには、幻想でさえも説明し尽くしてしまう現代映画への批判が織り込まれているように感じられる。エンディングのエピソードはおそらくハリウッド映画のパロディなのだろう。

最後に、松浦はこの小説に40歳前の建築家を登場させ、平岡のために2つの家をつくらせていることを記しておこう。平岡老人が全幅の信頼を置くこの若い建築家が設計した2軒目の家は「塔の家」と名づけられ、1軒目の家と同様に、この小説で重要な役回りを割り付けられている。

 

不可能|松浦寿輝著|講談社|1,890円

 

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